以前、ブレイディみかこさんの「ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー」を読みました。
前回は、学校の道徳教育につかえるなと思ってとても面白く読みました。
2巻を読んで、1巻よりも広いテーマや価値観について考えてしまいました。
今日は読書の感想を書いていきます。
最近、文庫も出たので、ぜひ読んでみてくださいね。
リーダーの資質について Lead By Example
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「リーダーの資質」について、息子は「LEAD BY EXAMPLE」という言葉を挙げ、「言葉だけで指示するのではなく、まず自分がやってみるのが大事」と書いている。・・・(中略)・・・
「導く(LEAD)ということは、前から引っ張るということだけではなく、時には一番後ろに立ち、後部が離れていってしまわないように押し上げる(PUSH UP)のこと」・・・(中略)・・・
教育とは、教え導くことではなく授けることであり、授けられ、そして委ねられることになるかもしれないと思った。
ーブレイディみかこ.「ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー」.P77
前半の部分は、主人公が日本でいう生徒会の面接に望んだ時の言葉。
後半は、主人公の母(著者)が、イギリスで保育士として働いていた頃に、保育所の偉大な先輩から学んだ一言として紹介されていた。
この言葉を読んで、私の教育観と今の日本の教育観って今どうなんだろうと引っかかりました。
「誰1人取り残すことのない『令和の日本型教育』の実現に向けて」という指針を文科省が出しました。
その中の「教職員の姿」の一説にはこんな文言がありました。
教職員の姿
○ 教師が技術の発達や新たなニーズなど学校教育を取り巻く環境の変化を前向きに受け止め,教職生涯を通じて探究心を持ちつつ自律的かつ継続的に新しい知識・技能を学び続け,子供たち一人一人の学びを最大限に引き出す教師としての役割を果たしている。その際,子供の主体的な学びを支援する伴走者としての能力も備えている。
○ 教員養成,採用,免許制度も含めた方策を通じ,多様な人材の教育界内外からの確保や教師の資質・能力の向上により,質の高い教職員集団が実現されるとともに,教職員と多様な専門スタッフ等とがチームとなり,個々の教職員がチームの一員として組織的・協働的に取り組む力を発揮しつつ,校長のリーダーシップの下,共通の学校教育目標に向かって学校が運営されている。
○ さらに,学校における働き方改革の実現により,教師が創造的で魅力ある仕事であることが再認識され,教師を目指そうとする者が増加し,教師自身も志気を高め,教育については,誇りを持って働くことができている。
「子供の主体的学びを支援する伴奏者」とはなんなんだろうか?
子供は主体的に学ぶものなのだろうか?
よく日本型の教育は課題(問題)を投げかけ、そこについて子供が興味を持ち学習に取り組むような姿を主体的な姿として紹介されます。
もちろんこれは、問題に対し主体的に学びをしているとは言えます。
ただ、子供が社会に出てからは、誰かが問題を与えてくれることは少ないです。
目の前の困難から、課題(問題)を浮き彫りにし、その課題を解決するにはどうすればいいかを考えていくことがほとんどです。
そして、その課題の解決方法は何通りもあり、本当に正しいかは誰にもわからないし一般解もありません。
もちろん、数学で論理的思考力を磨く、国語で文章を読めるようにすることが大事です。
ただ、文科省の出している資料は、学習だけの枠にとどまらない子どもの姿を想定し、教員の姿を定義しているものになっています。
もちろん学習指導以外にも学校の役割はたくさんあります。
そこで、もう一度、著者の「導く(LEAD)ということは、前から引っ張るということだけではなく、時には一番後ろに立ち、後部が離れていってしまわないように押し上げる(PUSH UP)のこと」という言葉を思いだしたいと思います。
先生は、子供を導くほど偉い存在ではありません。
子供と一緒に悩み、解決を考え、一緒に困難に立ち向かって行くのが導くということではないかと改めて思いました。
大村はま先生の言葉にもこんなものがありました。
「よく読んでごらん」と先生方はよく言いますが、その「よく読む」というのは、どんなことをすることなのでしょうか。「もっとよく読む」なんて、そんな読み方はありません
-「大村はま96歳の仕事」より
わからない子に寄り添う。そこを押し上げる中で、見えてくることがある。
たくさんの無駄をしなければ、やはり玉を拾うことはできない。でも考えれば、むだになったのではないのです。いいものを見つける背景として、それは必要だったのです。玉ばかりを見つけようとしても、玉ばかり落ちているということはちょっとないのです。あれこれの中にわずかに混じってあるわけです。
-「大村はま講演集(下)」より
失敗をする。けど、失敗の中に、何か見つけるものがある。
こんなLEADが必要なのではないのかなと思いました。
俺みたいになるな
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「俺とちがって真面目だから心配する必要ないってことはよく知っているけど、俺みたいな底辺労働者にならないように、しっかり勉強しろよ」
ーブレイディみかこ.「ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー」.P130
私の中でこの言葉は衝撃でした。
親から子どもに勉強しなさい!という言葉をかけるのはよく聞きます。
ただ、それは子どもにもっと成長してほしいからであって、自分(親)のようになってほしくないことの裏返しという意味が入っていることに気づかなかったからです。
私の両親はもしかしたら、自分(親)のようになってほしくないなんて思ったことはなかったんじゃないでしょうか?
なぜなら、自分の両親も教員をしていて、両親は私が教師になることを望んでいました(反発して喧嘩もしましたが)。
そして、両親に「勉強しなさい」と言われたことは一度もありませんでした。
ということは、私の両親は教員として仕事をしてきた人生を、大変ではあったが後悔はしていないのです。
一方、主人公の親父さんは、自分の仕事について後悔をしています。またそのようになった一端を学生時代の学習状況に問題があったというということが読み取れます。
主人公の親父さんは、荷物を運ぶドライバーをしています。
でもドライバーというのではなく自分のことを底辺労働者とレッテルを貼るかのように自嘲気味に語っている。
この姿が印象的でした。
親の背中をみて子は育つ。といいます。
ただ自分のことを「底辺労働者」と語る親の背をみて、主人公である息子はどんなことを思うのでしょうか。
もちろん主人公の親父さんを否定しているわけではありません。50歳くらいでしょう。
日本ではリスキリングなんて言葉が出てきましたが、50歳から人生を巻き返すのは難しいことです。
とてもエネルギーがいることです。
そして、仮に一念発起しても、全く無駄になることも十分あり得ます。
だからこそ、若いうちに勉学に励み、より良い仕事に就くよう願う親父さんの悲哀にもみた愛情を感じ取りました。
自分のようになって欲しいと願う親、自分のようになるなと願う親。
どちらがいいのかな。
また、教師の立場としてどちらの考えも持っている親がいることを心に留めたいと思いました。
ポリティカル・コレクトネス(PC)と今の社会について
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数年前まで、あるいはほんの1年前までは何も考えずに人々に使われていた表現が、問題視される。そこで様々な意見が交わされてこの表現はもう使わないことに使用ということになったが、やっぱり禁止は行き過ぎだろうというとことに落ち着く。それどこの件はもう終わったものとしてみんな忘れていたのに、十数年たってまた同じ議論が再浮上する。
PCは誰かが独善的に決めるものではなく、長い議論と歴史の積み重ねによって変わっていくものなのだ。・・・(中略)
迷いながら、手探りで進んでいくしかない。
ーブレイディみかこ.「ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー」.P183
「Fairytail of New York」という曲を歌うのが、イギリスのクリスマスでは定番だそうです。(日本でいう紅白のエンディングの『蛍の光』のようなイメージ)
ただ、この歌詞の中にはポリティカル・コレクトネス(Political Correctness 以下PC)的によくない表現が含まれていて、歌うのはどうかという議論が中学校で生徒の間で起こります。
ところでPCとは、人種や性別、宗教、障がいの有無などの差別や偏見をなくすことを目的とした考え方です。略して「ポリコレ」などとも呼ばれます。
日本では、あまりこんなことは起こり得ませんでした。
それは、日本社会には、日本人が大多数であり、PCといった見方はする必要がなかったからでしょう。
ただ、今の学校が変わってきています。
学校に何人も外国籍の生徒がいるのは当たり前になってきました。
日本語が話せない子供もいます。
また、日本国籍を持っている(将来日本国籍を持つ)子も少ないです。
その中で、日本の学校で日本人の先生がどんな教育を展開していくか、とても悩みどころです。
私は、いろんな人種がいる学校は経験したことがありません。
今後の日本の教育について考えさせられる一章でした。
最後に
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色々書きましたが、この本は親としても、教師としても、親のあり方、教師のあり方について考えさせられてしまう1冊になりました。
文庫本でも出てますし、中古でも大量に出回っています。
ぜひ見つけたら、一度手に取ってみてくださいね!
今日は「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2」の感想でした。
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参考HP
https://www.mext.go.jp/content/20200911-mxt_syoto02-000009845_7.pdf
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