以前「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を読んで衝撃を受けました。
なかなか言葉にし難いんだけど、その一滴を今回記事にできればと思っています。
外国にルーツを持つ生徒が増えて、同じ教室で勉強をするという光景が当たり前になってきました。
そして、この状況は、どんどん加速していくのではないかと思っている。
学校現場ではどんなことを考えればいいのだろうか?
「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」はこんな話
主人公は、英国人の父親と日本人の母の間に生まれた中学生の男の子である。
顔立ちは日本人っぽい。ただし日本語は喋れず、英語を主言語としている。
英国で暮らす中で、イギリスの抱える移民問題、人種差別問題に直面したり、日本に一時帰省した時にも、主人公は「なぜ日本語が喋れない!」と地域の人から白い目で見られる。
その中で、主人公の様子を書き綴ったリアルエッセイである。
いや、マジで面白かった。
日本人が日本人を差別するの!?
さて一番印象に残っているのは、前章でも書いたが、「日本に帰省した主人公を、地元の人は、日本語が喋れないとからという理由で白い目でみたり、日本語がわからないだろうと平然と罵倒した」ところ。
ここでふと思ったのは、
・いじめと差別の違いはなんだろう
・日本人ってなんなんだろう。どうやって決めるんだろう。
いじめと差別の違い
いじめは、クラス・職場など閉鎖された人間関係の中で起こるものを指し、差別はもっと社会的なものであるらしい。
ただ、いじめされている人、差別されている人にとってはそんなの関係ないよなと思いました。
ただ、いじめだと、ん?と思っちゃうけれど、差別だとみんな当たり前だと思っていて、なかなか歯止めが効かないのかなと思います。
また、差別が当たり前だと、いじめも助長されるって側面もあるだろうななんて考えます。
日本人ってなんだろう?
この小説では、主人公が、見た目は日本人なのに英語しか喋れないから白い目で見られました。
日本人ってなんなんでしょうか。
日本人というと外国人という区別が出てきます。
ちょっと話が飛びますが、日本語ペラペラで友達と仲の良い外国籍の生徒をもったこともあります。
普通に友達と仲良く過ごし、日本人や外国籍と考えたこともなかったです。
これってなぜでしょうか?
多国籍な教室が当たり前になる中で
学校に多国籍な生徒がいるのが当たり前になりました。
国際理解を叫ばれるようになって久しいです。
学校において、授業で国際理解が行われるのは外国語の授業と道徳。
とりわけモラルや心情的な面で考えさせるのは道徳ではないでしょうか?
道徳で国際理解ってどんなことを学習するの?と思って、学習指導要領解説を見てみました。
18 国際理解、国際貢献
世界の中の日本人としての自覚をもち,他国を尊重し,国際的視野に立って,世界の平和と人類の発展に寄与すること。
(1)内容項目の概要
・・・(中略)・・・「他国を尊重」するとは,他の地域や国々はそれぞれの文化や伝統,歴史をもっており,地域や国々の在り方,あるいはそうした地域や国々がもっている理想等を,違いは違いとして理解し,それを尊重していくことを意味している。そのことを踏まえつつ,平和は,全ての国々の万人の心の内で模索すべき道徳的課題の一つであるということを理解する必要がある。日常生活の中で社会連帯の自覚に基づき,あらゆる時と場所において協働の場を実現していく努力こそ,平和で民主的な国家及び社会を実現する根本であり,国際的視野に立って世界の平和に貢献することにつながる。
ー中学校学習指導要領(平成 29 年告示)解説 – 特別の教科 道徳編 P60
確かに異なる文化を持つ人に対して、違いは違いとして理解し,それを尊重していくことは大切だとは当然思います。
でも、これは日本人からみた国際理解である。
今回のような複雑な場合は、なんか違うなと思いました。
そこで、相互理解、寛容の内容項目を見てみました。
9 相互理解,寛容
自分の考えや意見を相手に伝えるとともに,それぞれの個性や立場を尊重し,いろいろなものの見方や考え方があることを理解し,寛容の心をもって謙虚に他に学び,自らを高めていくこと
(1)内容項目の概要
人間相互の理解は,自分の考えや意見を発信することが一つの鍵になる。様々な物事について,自分の考えや意見を人に伝えることは,人間関係を築き,相互理解を深めるために欠かすことができない。人間は,大抵の物事についてその全体を知り尽くすことは難しく,自分なりの角度や視点から物事を見ることが多い。人には,それぞれ自分のものの見方や考え方があり,個性がある。そこで大切なことは,互いが相手の存在の独自性を認め,相手の考えや立場を尊重することである。他者と全く同じということはないのであり,他者との関わりの中で具体的な物事について話し合ってみないと,自分の狭さに気付くことができない。そして,自分自身も他者も,それぞれのものの見方や考え方にとらわれ,過ちを犯しやすい人間であると深く理解することで,自分と異なる他者の立場や考え方を尊重することができる。寛容の心をもてば,人を許し受け入れてとがめだてしないで,他者のよい面を積極的に認めようとすることができるのである。・・・(後略)
結局様々な背景をもつ人が増えていく中で大切なのはこっちかなと思います。
小説の中で、著者はこんなことを述べています。
オックスフォード英英辞典のサイトによれば、シンパシー(sympathy)は、「1.誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと」「2.ある考え、理念、組織などへの指示や同意を示す行為」「3.同じような意見や関心を持っている人々の間の友情や理解」と書かれている。一方、エンパシー(empathy)は「他人の感情や経験などを理解する能力」とシンプルに書かれている。つまり、シンパシーの方は「感情や行為や理解」なのだが、エンパシーは「能力なのである」前者は普通に同乗したり、共感したりすることのようだが、後者はどうもそうではなさそうである。
ーブレイディみかこ「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」P94
我が国の道徳でいう「相互理解、寛容」とは「エンパシー」という言葉と似通っている。
日本の道徳は、「Moral stady」と訳されがちだが、現在そういう心情面で迫る授業は少なくなってきていて、反面、ソーシャルスキルトレーニング(SST)や、コグトレなど、社会を生き抜くうえで必要な技を身につける学習も増えてきている側面もある。
もしかしたら、この先「エンパシートレーニング」という新しい言葉がでてくるかもしれない。
もしそうなったら、エンパシーのスキルをもった日本人がたくさんいるといいな。
結局は最初に書いた、日本人による主人公への無理解は、エンパシーによって解決できるような気がする。
そして、国際理解の項目にも、エンパシーの言葉が入れば・・・。なんて思ったりもする。
最後に
エンパシーについては主人公いわく「自分で誰かの靴を履いてみること」らしい。
これは英国では一般的な慣用句であって、そうすることで相手の立場がわかるのではないか?という意味らしい。
日本もこれからエンパシーがとても大切になってくる。
自分で誰かの靴を履くことで、何か見えることがあるかもしれない。
長尺の本なので、授業で取り扱うのは難しいでけれど、ぜひ中学生に読んでもらって感想を聞いてみたい作品だった。
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